クロエエクリプストートバッグ
null
null「楠夫ちゃん。そうかなあ」  竜太は遠慮勝ちに言った。 「だけど楠夫ちゃん、冴子先生のお父さんは、旭川でも指折りの時計屋だよ。旭川の商店の中では出世頭だって、うちの父さんがよくいっているよ。医者にも、大学の先生にも、けっこうクリスチャンはいるしなあ」  坂部先生が言った。 「ちょっと話がそれて行ったようだけど、結論は急がなくていいんじゃないかな。進化論に立って、虐げられている人を命がけで助けようとしている人もいるし、天地創造論に立って、隣人愛に身を挺《てい》している人もいるし……」  竜太はふっと、今年の二月に死んだ小林多喜二のことを思った。多喜二は名作「蟹工船」などで有名になった小説家である。多喜二は二月二十日午後一時、路上で逮捕され、その日の午後七時半に絶命したと聞く。警察では心臓麻《ま》痺《ひ》と発表したが、以来七カ月、様々な噂《うわさ》が飛んだ。国民の多くは拷問による死だと信じていた。その死に驚いて駆けつけた通夜の客も葬式の客も、その多くは警察に連行されたとも聞いた。多喜二は小《お》樽《たる》で育ち、小樽の学校を出ている。旭川に住む竜太にとって、身近に感ずる小説家だけに、衝撃は大きかった。しかも警官の拷問による死ということで、更に竜太を驚かせた。信じ難いことだった。質屋である竜太の家には、竜太の幼い時から、私服刑事が週に一度や二度は、張り込みにやって来た。時には、竜太や保志を相手に将棋を指したり、おもしろい話を聞かせてくれたり、腕相撲で遊んでくれたり、一般の人たちと何ら変ることのない人たちであった。  その刑事たちと同じ警察官が、死ぬほどの拷問をしたなどとは、竜太にはどうにも信じられなかった。 (思想が悪い者は捕まるとは聞いてはいたけど……)  たとえ、どんな悪人でも、取調べ中に殺されるなどということは、あり得ない筈《はず》だと思っていた。 「先生、二月に死んだ小林多喜二のことですけど、あれは殺されたんですよね」 「うん、そうらしいね。警察では死因は心臓麻痺と発表したけど……」 「それじゃ嘘《うそ》じゃないですか。ぼく、警察が嘘をつくなんて、思いもしませんでした」  竜太の一《いち》途《ず》な表情に、坂部先生が黙った。楠夫が声を低めて言った。 「竜ちゃん、うちのおやじはね、小林多喜二の話なんか、決して人前でするなって、言ってるよ。多喜二は凄《すご》い親孝行だったとか、きょうだい思いだったとか、ほめて書いている人もいるけど、ほめちゃいけないって」 「どうしてさ。いいところはいいって、ほめたってかまわないんじゃないの」 「知らんけどな、世の中というもんは、そういうもんらしいよ。ね、先生」  楠夫は坂部先生を見た。 「ああ、何だか、いやな世の中になってきたね。満州事変のことを批判したりしても、当局の忌《き》諱《い》に触れる。だから国民は、前後左右を見ながら、何か言いたくても、何も言わずに生きていく。治《*》安維持法というのは、なるほど悪法だ。恐ろしいもんだ」